日本人の生活の一部となっているお風呂。そんなお風呂は、一体どのような歴史を辿ってきたのか気になりますよね。

本記事では日本のお風呂の歴史について少し触れてみたいと思います。

奈良時代

日本で「入浴」が広がったのは、仏教の伝来がきっかけだと言われています。仏教では、「入浴」は僧侶の身体を清めるための大切な宗教儀式でした。

当時は蒸し風呂のような形で、お寺に「浴堂」という、体を温める施設が作られていきました。現在のサウナに近いものだったようです。

一般の人々が入浴できる機会はめったにありませんでしたが、仏教の慈善事業として、病人や貧しい人々に施設を開放して入浴させる「施浴」が行われるようになりました。

これが、日本の公衆浴場の起源と言われているそうです。

平安時代

平安貴族たちの間で入浴の文化が発展し、「風呂殿」と「湯殿」に区別されるようになったと言われています。「風呂殿」は蒸し風呂、「湯殿」は湯浴をする場所だそうですが、湯浴といっても現在のように浴槽に湯をはって浸かるのではなく、水や湯を体にかける程度のものであったとのこと。あくまで「身を清める」や「禊(みそぎ)」といった儀式的な意味合いが強く、入浴する日も占いによって決めていたそうです。

毎日入浴する訳でもなく、入浴方法は体にお湯をかける程度…となると、気になるのは体臭。そこで流行したのが「お香」と言われています。お風呂に入る習慣がないフランスで香水の文化が発展したことと、どこか似ていますね。

鎌倉・室町時代

入浴の習慣は盛んになっていき、鎌倉時代には、商売として庶民向けのお風呂の営業が始まったと言われています。これが後の「銭湯」ですね。

また、室町時代には、個人にも広まるようになり、裕福な家では人を招いて趣向をこらした入浴と酒食をふるまうようになったそうです。

江戸時代

江戸時代になって、蒸し風呂は「戸棚風呂」というものに形を変えたと言われています。「戸棚風呂」は、膝くらいの高さの浴槽に下半身を浸け、上半身は湯気で蒸す仕組みでした。半身浴のような形ですね。

江戸中期になると、浴槽付近の湯気が逃げないように、洗い場と浴槽が分離された「ざくろ風呂」というものが流行したそうで、これが江戸時代の中心的な銭湯の形となったそうです。

一般庶民の家庭には、大きな桶に湯を張って首まで浸かる仕組みの「すえ風呂」が広まります。現代の入浴スタイルにぐっと近づいてきました。しかし、江戸時代は火事が多かったことで有名ですよね。従って、庶民の家にはお風呂場を設けることが禁止された(もしくはお風呂を沸かすことが怖がられていた)ようです。

このような背景もあって銭湯に通う人が増え、銭湯が社交や娯楽の場となり、ますます人気になっていったと言われています。

明治時代以降

明治中期になり、「ざくろ風呂」は禁止となりました。その理由は、湯気が逃げないように仕切っていた板のせいで中が暗くて視界が悪く、風紀を乱す人が多かったためと言われています。

「ざくろ風呂」に代わって出てきたものが「改良風呂」と呼ばれ、屋根に湯気抜きを作ったり、洗い場を広くしたり、汚れが入らないように浴槽の縁を高くしたりと工夫され、評判になったようです。

大正・昭和と時代が進むにつれて銭湯はさらに近代化され、洗い場や浴槽がタイル張りになったり、水と湯に分かれた水栓が取り付けられたりと、衛生面を向上させながら現代のお風呂の形になっていきました。

また、高度成長期にインフラが整備されたことで各家庭にお風呂が普及していき、その後、ステンレス浴槽やFRP浴槽といった、様々なデザインのお風呂が登場して現在に至ります。

日本のお風呂には長い歴史がある!

いかがでしたでしょうか。

こんな長い歴史を辿って現在のお風呂の形が出来上がったと知ると、ますますお風呂に愛着が湧いてきたのではないでしょうか。

そんな中で、「家のお風呂がもっと快適な空間になったら、もっと愛着を持てるのにな…」とお考えの方もいるかもしれません。

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